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  ◆鎮西大社 諏訪神社
 
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ラーメン
 
戦国時代の長崎は、キリスト教の領地になり、寺や神社は焼き払われて無くなっ
ていました。1625年(寛永2年)初代の青木賢清宮司により、諏訪、森崎、住吉
の三社を西山郷円山に、長崎の産土神として再興しました。さらに、1648年(慶
安元年)に朱印地を得て、荘厳な社殿が造営されました。
1857年(安政4年)の不慮の火災によってほとんど焼失しましたが、孝明天皇
の命により、1869年(明治2年)に再興し、さらに、1984年(昭和59年)、御鎮
座360年祭を記念し、昭和の大改修で現在の社殿が造営されたのです。
また、『長崎くんち』は日本三大祭りの一つで、国の重要無形民俗文化財に指定
されています。その奉納祭りは、長崎ならではの国際色豊かなもので、龍踊り、
コッコデショは全国的にも非常に有名です。
江戸時代の長崎は、わが国唯一の国際都市で、外国人への示威も兼ねて、幕
府の援助により、諏訪能太夫早見治部をはじめとする能役者が二十余名置かれ
能が催されていました。現在その名残として、能面や能装束が多数残っており、
長崎県の有形民俗文化財に指定されています。
朝廷や幕府の崇敬も篤い当神社は、元禄年間に霊元上皇御宸筆が下賜され歴
代将軍家の朱印状、法眼栄川の龍虎の図、勝海舟奉納の脇差など、その他多
数の宝物があります。
特に当神社の名物の中でも『英文みくじ』は非常に有名で、1914年(大正3年)
に旧制県立長崎中学の釘本小八郎英語教師により、わが国で初めて作られた
ものであり、国際都市長崎ならでわの『おみくじ』です。
 住   所  長崎県長崎市上西山町18-15
 電話番号  095-824-0445 
 拝観時間  自由参拝
 駐車場  年中無休
 アクセス  路面電車諏訪神社前より徒歩5分
 駐車場  50台(無料)
     
  ◆眼鏡橋
 
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ワンタンメン
 
眼鏡橋は、長崎市の中心を流れる中島川にかかる10番目の橋です。
日本最古の石造りアーチ橋である長崎市の眼鏡橋は、1634年(寛永11年)に
興福寺の僧黙子によって架けられたものです。
中島川の水面に映る姿が眼鏡に似ていることから、「めがね橋」という愛称で親
しまれていましたが、1882年(明治15年)に正式に「眼鏡橋」と命名されました。
眼鏡橋は、長さ22m、幅3.65m、高さ5.46mのりっぱな石橋でしたが、
1647年(正保4年)の洪水と1982年(昭和54年)の大水害により、崩壊しまし
たが、その都度架け替えられました。
 住   所  長崎県長崎市古川町
 電話番号  095-829-1314 長崎市観光宣伝課 
 アクセス  路面電車公会堂前より徒歩4分
 駐車場  なし
 アクセス  路面電車諏訪神社前より徒歩5分
     
  ◆東明山 興福寺
 
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チャーシューメン

 

 
興福寺は、国内初の黄檗禅宗(おうばくぜんしゅう)の唐寺で、別名『あか寺』や
『南京寺』とも呼ばれている『長崎三福寺』の一つです。
1620年(元和6年)長崎に渡来した中国人が、航海の安全を祈願して建築した
と言われています。
江戸時代初期の長崎は、朱印船貿易、唐船貿易が盛んでしたが、キリスト教禁
令が進み、長崎在住の中国人にも疑いがかかってきたので、仏教徒であること
を証明する為に唐寺を次々に建てました。
南京を中心とした貿易商や大船主を檀家とした興福寺は、日本で最も古い眼鏡
橋を造った第二代黙子如定や、南画の祖と言われている第三代超然、明の高
僧である隠元隆叙禅師らが住職として、禅寺として発展しました。
1632年(寛永9年)、黙子如定が本堂の大雄宝殿を建築したものの、1663年
(寛文3年)に大火が起こり焼けてしまった為、1689年(元禄2年)に建直しが行
なわれ、さらなる1865年(慶応元年)の暴風雨での大破の為1883年(明治16
年)再度建て変わりました。
本堂は中国工匠による純粋の中国建築であり、国指定重要文化財となっていま
す。
また、本堂入口の『航海慈雲』と書かれた額は、航海の安全を祈ったと言われる
本寺の起源を象徴しています。
 住   所  長崎県長崎市寺町4番32号
 電話番号  095-822-1076
 拝観時間  8時〜17時
 休 業 日  年中無休
 入 場 料  大人300円、中・高校生200円、小学生100円
 駐車場  10台(無料)
 アクセス  
     
  ◆聖寿山 崇福寺
 
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もやしラーメン

 

 
崇福寺は、1629年(寛永6年)に福州地方の唐人たちの希望で招かれた唐の
僧である超然が設立した黄檗宗寺院です。
興福寺が南京地方の出身者により設立されたことで『南京寺』と呼ばれているの
に対して、崇福寺は『福州寺』と呼ばれています。
崇福寺は、本堂と第一峰門の2つの国宝と、竜宮門など5つの 国指定重要文化
財、3つの県指定有形文化財、6つの市指定有形文化財を持ちます。
 住   所  長崎県長崎市鍛冶屋町7-5
 電話番号  095-823-2645 
 拝観時間  8時〜17時
 休 業 日  年中無休
 入 場 料  300円、(30名以上は240円)
 駐車場  10台(無料)
 アクセス  路面電車思案橋より徒歩5分
     
  ◆出島跡
 
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高菜ラーメン
 
出島は、1636年(寛永13年)に、長崎市内に雑居していたポルトガル人を居住
させるために築かれた人工の島です。この島は、当時『出島町人』と呼ばれてい
た25人の豪商の出資で完成しました。
出島は、形が扇型をしていたことから『扇島』や、海を埋め立てて築いたことから
『築島』とも呼ばれていましたが、その発想や技術については現在も謎につつま
れています。
1639年(寛永16年)幕府の鎖国令により一時無人の島になりましたが、1641
年(寛永18年)に平戸にあったオランダ商館が出島に移され、以降開国までの
218年間、出島はわが国唯一のヨーロッパに開かれた窓口として、大活躍しま
した。
明治以降、出島の周囲の埋め立て工事が進み、1904年(明治37年)の第ニ期
港湾改良工事の完成により、海に浮かぶ扇型の姿は失われました。
 住   所  長崎県長崎市出島町9-15(長崎市出島史料館本館)
 電話番号  095-821-7200  
 営業時間  9時〜16時40分(7月20日〜10月中旬は〜18時40分)
 休 業 日  年中無休
 駐車場  なし 
 アクセス  出島電停下車、徒歩1分
     
  ◆史跡料亭 花月
 
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辛子高菜ラーメン
 
江戸時代の長崎市の丸山は、江戸の吉原や京都の島原と並び日本の三大花
街と呼ばれ栄えた場所です。
『史跡料亭花月』は、その花街である丸山の中心にある遊郭『引田屋』庭園内に
御茶屋として誕生しました。
日本で初めて洋間を取り入れた『春雨の間』は、花鳥画の天井やタイル貼りの床
中国様式の窓を採用した斬新なデザインを採用しています。
1865年(慶応元年)に亀山社中を結成した『阪本竜馬』が通っていたことは有名
で、竜馬お気に入りの『竜の間』の柱の刀傷は、今でも残っています。
 住   所  長崎県長崎市丸山町2-1
 電話番号  095-822-0191  
 営業時間  12時〜15時、17時30分〜22時30分
 休 業 日  火曜不定休
 駐車場  5台(無料) 
 アクセス  路面電車思案橋より丸山公園方面へ徒歩3分
     
  ◆唐人屋敷跡
 
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野菜ラーメン

 

 
日本の中国貿易は、1635年(寛永12年)以来長崎港に限定されていました。
来航する唐人たちは、市内にばらばらに寝泊りしていましたが、幕府により貿易
が制限されるに伴い密貿易の増加が問題となってきました。
1689年(元禄2年)幕府はその対策として、鎖国後の出島と同じように十善寺郷
幕府御薬園の土地に唐人屋敷を建設し、唐人達を住まわることにしたのです。
唐人屋敷の広さは約9,400坪におよび、現在の館内町のほぼ全域に及びまし
た。周囲は堀で囲まれ、その外側を水掘りや空掘りがあり、その外側には竹垣
で囲われた空き地を置きました。
入口外側の大門には番所が設けられており、出入りを厳しく制限されました。
二の門は役人でも簡単には入出できず、唐人屋敷に出入りを許されていたのは
僧侶や遊女だけでした。しかし唐人は、唐寺へ出かけたりしていたので、長崎人
との交流の機会は多かったと言われています。
唐人屋敷の内部には、2,000名も収容できる長屋が立ち並んでおり、唐人たち

は強制的に居住をさせられました。

唐人屋敷は長崎奉行所の支配下に置かれ、町年寄以下の地役人が管理をして
いました。
当時の中国からの輸入貨物は日本側で預かり、唐人たちは厳しいチェックを受
けた後、身の回りのもののみを携帯することを許され、帰港の日まで唐人屋敷
で生活させられました。
唐人屋敷は、1784年(天明4年)の大火により関帝堂を残し全焼しましたが、大
火の後は唐人自身の建築を許され、現在興福寺に置かれている国指定重要文
化財の『旧唐人屋敷門』は、この大火後に建てられたものと言われています。
その後の唐人屋敷は、1859年(安政6年)の開国後に廃屋となり、1870年
(明治3年)焼失し、その後市民に分譲されました。
 住   所  長崎県長崎市館内町
 電話番号  095-829-1272 長崎市唐人屋敷推進室 
 駐車場  なし
 アクセス  築町電停から徒歩約8分
     
  ◆新地 中華街
 
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焼きそば
 
新地の中華街は、横浜、神戸と並ぶ三大中華街の一つです。
わが国が外国との交易を限定していた江戸時代の長崎において、出島に住む
オランダ人と同様に中国人についても居留地が設けられていました。
当時の長崎に住んでいた中国人は、長崎市の人口の6万人に比べ1万人を数
え、当時の長崎と中国の交易がいかに盛んであったかを裏付けています。
中国船からの積荷は、以前は大黒町や五島町の荷蔵におさめていたものの、
1698年(元禄11年)の大火により焼失してしまい、その教訓を生かして唐人
屋敷の前面の3,500坪の海面を埋め立て、荷物倉所を造りました。
この倉所は、新しく築地によってできた場所ということで、『新地』や『新地蔵所』
と呼ばれ、中国船の積荷の倉庫として利用されました。
明治維新が終わると、唐人屋敷や新地蔵所も廃止され、長崎に残留した中国人
たちが跡地に住み始め、長崎独自の中国人街として栄えました。
1987年(昭和62年)からこの新地中華街で開催されていた『春節祭』をベース
に、より大掛かりな夜間のイベントとして『長崎ランタンフェスティバル』が恒例と
して行われるようになり、毎年にぎわっています。
 住   所  長崎県長崎市新地町
 電話番号  各お店にお問合せ下さい。 
 営業時間  各お店にお問合せ下さい。
 休 業 日  各お店にお問合せ下さい。 
 駐車場  なし(県営、民間の駐車場をご利用下さい) 
 アクセス  築町電停から徒歩約3分
     
  ◆グラバー園
 
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特性ちゃんぽん
 
グラバー園は、長崎市内の南山手の小高い丘の上にあります。
国指定重要文化財に指定されている『グラバー邸』、『リンガー邸』、『オルト邸』
を中心に、市内にバラバラに存在していた有名洋館を現在の場所に移築し修復
しグラバー園としました。
長崎の特徴である傾斜した地形に位置している為、長いエスカレーターや動く歩
道を設け、長崎らしい石畳や、壁泉の曲がりくねった道を歩いて回り見学するよ
ように造られています。
また、園内には『蝶々婦人』に扮した『三浦環の像』やプッチーニの像が建ってい
ます。
グラバー邸は、1859年(安政6年)に長崎に来て貿易業を起こした英国人のト
ーマス・ブレーク・グラバーの遺邸です。この建物は、グラバー自身が設計し、
日本の大工に造らせたわがl国で最も古い洋風木造建築として、1961年(昭和
36年)に国の重要文化財に指定されました。
来日後わずか二年で『グラバー商会』を設立し、お茶や海産物で財を成したグラ
バーは、時代を見抜く目を持っており、一方で長州や薩摩などの若い志士たちと
の交流を持ちながら、幕府や各藩と武器や船舶などの軍需品の商売を行い、財
をなしました。しかし、諸藩の売り掛けを回収することが出来ず、倒産してしまい
ました。
その後のグラバーは、土佐藩出身の『岩崎弥太郎』が経営する『三菱商会』に参
加し、東京で三菱の相談役として裕福な余生を送りました。
一方、『フレデリック・リンガー』は1864年(元治1年)にグラバーに呼ばれて、イ
ギリスへの輸出技術顧問として長崎に来ましたが、三年後独立し、『ホーム・リン
ガー商会』を設立しました。リンガーの会社は、グラバー商会から権利を一部引
き継いで、長崎一の商社へと発展しました。その後グラバーの息子の『倉場富三
郎』と日本の産業・経済に大きく貢献しました。
また、日本の開港と同じにやって来た『ウィリアム・オルト』は、『オルト商会』を設
立しました。九州中のお茶を買い、大浦海岸の倉庫で製茶を行い、アメリカなど
外国への輸出で大成功しました。オルトにお茶を売り、成功したのが『大浦お慶』
です。お慶は、事業の成功収益で、阪本竜馬を初めとする幕末の志士たちに支
援をしました。
 住   所  長崎県長崎市南山手町8-1
 電話番号  095-822-8223 
 営業時間  8時〜18時(7月20日〜10月9日は21時30分まで)
 休 業 日  年中無休
 入 場 料  600円、(15名以上は500円)
 駐車場  なし
 アクセス  路面電車大浦天主堂下より徒歩7分

 

     
  ◆大浦天主堂
 
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皿うどん

 

 
大浦天主堂は、1864年(元治元年)にフランスのパリー外国宣教会神父である
プチジャンが熊本県天草出身の棟梁、小山秀に依頼し設立したものです。
翌年の1865年(慶応元年)には、パリー外国宣教会日本管区長ジラール神父
を初め、フランス領事、長崎港内に停泊中のフランス、ロシア、オランダ、イギリ
スの軍艦艦長同席の元に『26聖殉教者天主堂』と命名して、盛大な落成祝いが
行われました。本天主堂は、通称大浦天主堂と呼ばれています。
大浦天主堂は、26聖殉教者が眠る西坂の聖地に向けて建てられています。
1879年(明治12年)には、外壁のレンガ構造のゴチック建築様式にし、大きさ
も拡張しましたが、1945年(昭和20)の原爆投下により大きな被害を受けまし
た。その後、1952年(昭和27年)に国の補助を受け、5年の長期にわたって修
復工事を行いました。
大浦天主堂は、1933年(昭和8年)に国宝に指定されています。
 住   所  長崎県長崎市南山手町5-3 
 電話番号  095-823-2628 
 拝観時間  8時〜18時(受付17時45分まで)
 休 業 日  年中無休
 入 場 料  300円、(30名以上は250円)、中学高校生250円、小学生200円
 駐車場  なし
 アクセス  路面電車大浦天主堂下より徒歩3分
     
  ◆孔子廟
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中華丼

 

 
孔子(紀元前551〜紀元前479年)は春秋時代の中国の思想家で、儒教の創
始者です。紀元前551年に魯で生まれました。
孔子は幼くして両親を失い、孤児として育ちながら苦学して学問を修めました。
50歳で魯の大臣にとりたてられますが、理想を果たせず紀元前497年に諸国
巡遊の旅に出ます。しかし、孔子の思想を受け入れる国は無く、紀元前483年
に故郷の魯に帰ります。その後孔子のおしえは弟子達に受け継がれ、世界人口
の三分の一に亘る地域で、学問・教育・思想の基本理念として受け継がれてい
ます。孔子が亡くなった後一年の紀元前478年、魯の哀公が闕里(現在の山里
曲阜)に衣冠や書籍などの遺品を納め祭ったのが孔子廟の始まりと言われてい
ます。
日本においては、徳川幕府が儒教を尊崇し、各藩が数多く学問所として設立しま
した。長崎では、向井元升が1647年に長崎聖廟として設立したのが最初です。
現孔子廟は、長崎の華僑が清朝政府と資金を集め、1893年に設立した中国人
による唯一の孔子廟です。1945年8月9日の原子爆弾の投下により、崩壊寸前
となりましたが、華僑は修復をし、1967年9月28日(孔子誕生日)から一般公
開を始めました。
当孔子廟は、戦後改装の時に華南文廟様式で建築されましたが、1982年の改
修時に使用したものが北京の工場で製作されたので、華南と華北の合体した建
築様式となりました。
 住   所  長崎県長崎市大浦町10-36
 電話番号  095-824-4022  
 営業時間  8時30分〜17時
 休 業 日  年中無休
 入 場 料  大人525円(20名以上420円)、中・高校生420円、小学生315円
 駐車場  20台(無料)
 アクセス  路面電車大浦天主堂下より徒歩3分
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